2020.12.30
第5章7昔の話⑦ 窮地
全てが順調だった。東芝、松下、ソニー製などの移動型ビジョンの会社にとって私は上得意客だった。国内の主だったサーキット場で年間延べ数十日も借り受け、おまけに渋谷のビルに据付ける大型ビジョンの発注元であるM社の担当者である私に各社とも貸出し料金でも便宜を図ってくれた。レース業界は元より広告業界でもある程度「移動型大型ビジョンの事ならM社の川口」たる世評も立って取引先や知人のツテでイベントなどでの導入手配の依頼も時折入って来る様になった。イベント内容や日程を聞き、移動型ビジョンを手配するだけの仲介役だがこれだけで50万程度の利鞘が稼げたので割りの良い仕事だった。
好事魔多し
夏を間近に控えた6月頃だったか鈴鹿サーキットの紹介でH社の仙台支店から同様の依頼が入り打ち合わせに出向いた。店舗敷地内での顧客を招待して行う七夕祭りのイベントで移動型ビジョンを使いたいという事だった。内容と予算から比較的小ぶりなソニー製を使う事にし、帰京後に移動型の担当者と詳細の打ち合わせをすれば後はイベント終了後に機材の支払いと請求を行うだけだった。私が同行するまでも無い至極簡単な仕事だったのでそのイベントの事は8月7日の当日までもうすっかり忘れていた。
8月7日当日は鈴鹿か富士のレースの仕事で帰宅したのは夜だった。留守電には多数のメッセージが残されておりそれを聞いて愕然とした。移動型ビジョンがイベントに来ないというメッセージが仙台支店の担当者の悲痛な声で残されていたのだ。(ちなみにNTTの携帯電話サービスは‘87年に始まったばかりで当時はまだ殆ど誰も持っていなかった。今なら事態は多少変わっていたかも知れない。)朝から間断なく有った着信は夕方には途絶えていたが私は何が起きたか全く理解出来ずにいた。移動型ビジョンの担当者にはきちんと日時、場所は間違い無く伝えた筈だ。それがどうしてこんな事態になるのか全く分からなかった。
まんじりともせず夜を明かして出社した私は「トップガン」という運営会社の責任者を呼びつけた。30年以上も前の事だが良く覚えている。M社の一階の喫茶室に責任者が顔面蒼白でやってきた。あろうことか日にちを一日間違えたとの事だった。全面的にミスを認めた訳だがトップガンってトムクルーズの映画にも有ったが米国空軍士官学校の最優秀卒業生に与えられる称号であるのにどこがトップガンやねんと突っ込みを入れている場合では無かった。イベント直前に再確認を怠った私にも油断が有ったのは否めないしとにかく覆水盆に返らずとはこの事だった。半沢直樹じゃ無いが倍返しで以降2回の機材無料レンタルをトップガンからの詫び料として提示され、もうそれで彼らは解放するしか無かった。彼らは所詮下請けの身で責任の所在は全て元請けであるこの私だったからそれ以上の責を問うても仕方が無いと思ったからだ。
さて問題はここからだった。仙台の相手先担当者には七夕当日の夜に連絡がつき取りも直さず詫びを入れ、翌朝トップガンとの面談後にも事の次第を説明した訳だがその際に折角の七夕イベントが台無しになり、支店長の憤りも相当なものであるという状況も聞き及んでいた。とにかく平社員の私独りでも先ずは陳謝に行かねばとアポを取るべく再度彼に連絡した際に「本日弊社の支店長から川口さんの所属部長様宛てに今回の一連のいきさつに於ける信書を送らせてもらったみたいだから一応事前に教えときますね」と告げられた。
それはまずい、流石に焦った。M社を通してのきちんとした本業でのミスならいざ知らずこれは個人の副業でのミスだ。ましてや相手は名だたる大企業H社で支店とは言えそこのトップからの信書だ。何が何でも絶対にそれを部長に見られる訳にはいかない。M社では外部からの郵便物は全て一旦郵務という部署に集積され、そこで社内の各部署や個人に振り分けられる仕分け作業が行われていた。企業の中のミニ郵便局だ。私は郵務の担当者達に「うちの部長宛てにH社から大事な手紙が届く予定で私の手からきちんと直接渡したいのでくれぐれも宜しく」と空々しい理由をつけて2〜3日の間頻繁に郵務部に通い詰め、ようやくその信書をインターセプトする事が出来た。そのまま即座にトイレの個室で冷や汗を掻きながら慎重に封を開け内容に目を通したが予想通り今回のいきさつや私の名前やら記された上で要はM社としてどういう後始末をされるつもりなのかと言ったものだった。私個人の副業での顛末だからM社としての後始末と言われても部長としても寝耳に水以外の何物でも無いし、信書と共に事の経緯を部長に白状しその上で説明、釈明すればどのような事態になるか想像するだけで気が滅入った。
まともな勤め人ならこういった場合は(普通の人は副業に手を染める事は無いが)殆ど観念して信書が部長に届くのを待ち、問い詰められた上で全て白状してその後の処分を甘んじて受け入れるしか無いかも知れない。信書の封を勝手に開け、その内容を確認した上で如何にしてこの窮地を凌ぐかをひたすら考え始めていた私は勤め人としては既に壊れていたのだろう。