2020.12.23
第5章6昔の話⑥ 異分子
変化してゆく日常
サーキット場での副業の実入りは優に2,000万/年を超え私の年収はM社の給与も併せて手取りで3,000万近くにまで膨らんでいた。悍ましい通勤ラッシュを強いられる埼玉の寮も退寮し世田谷にマンションを借り、会社の近くに駐車場を借りて車通勤をするようになっていた。一応定時には出社するもその後は渋谷のビジョンの打ち合わせやスポンサー営業という名目で外出し、その流れで夜は広告代理店の連中や鈴鹿のスポンサー企業の担当者達と酒盛りの毎日だった。当時流行っていた麻布十番のマハラジャ、青山のキング&クイーンなどでそういった面々に加えタレント事務所の社長、所属モデル達と夜な夜な面白おかしく夜を過ごしていた。一方で東京という地で快適に楽しく暮らすには金が無いとどうしようもないと日々実感しつつもあった。
副業は順調というか固定のスポンサーも付いて安定していた。ただもっと様々な広告やイベントの仕事をこなして行きたかった。勿論もっとお金を稼ぎたいというのもあったが自身の企画で人々が集まり、その群衆が驚き、喜び、昂ぶる姿を見るのが私にとってこの上無く刺激的だった。渋谷のビジョンのプロジェクトで懇意になっていた109の担当課長は仕事も出来たがある意味山っけのある人物だった。当時夜毎遊んでいた相手の1人なのだがある時彼から「2ヶ月程の期間限定で良い空き地があるんだが何か上手くやって儲ける事が出来るか」と内々に相談があった。もう30年以上も昔の事だから知っている人はそう居ないと思うが109から東急百貨店に向かう途中にガソリンスタンドがあった(出光だったと思う)。今のH&Mあたりだったと思うがとにかくそのGSが建造物残したまま閉店していた。聞くところによるとそこに109の新たなビルが建てられる予定なのだが(その後109→マルハン→H&Mと変遷)その前に誰かに賃貸ししても良いという事で決定権は彼が持っていた。「場所は最高なので何かやりましょう、やらせて下さい」と私は即答した。
期間は夏の間の2ヶ月、場所は渋谷の東急本店通りに面した100坪程。何をやれば良いのかは直ぐに決まったがポイントは誰にやらせるかだった。それも当初から私的にはここしか無いと思っていた相手がいた。企画書を持って原宿にあったアパレル会社を訪れた。ブランド名はPERSON’S(パーソンズ)、‘80年代当時若者を中心に絶大な人気を誇っていたアパレル会社だ。パーソンズは当時モータースポーツにも参入しておりサーキット場での私の副業スポンサーでもあった事から役員とは懇意な間柄だった。企画の中身は渋谷の一等地でパーソンズバーというビアガーデンを夏限定でオープンする。現存の建物含め敷地内はパーソンズ独自でカラーリング等全てデザインし、Tシャツ、ビアグラス等パーソンズバーのオリジナル商品も現地で販売するといったシンプルな内容だったと思う。プレゼンした役員の反応や彼の性分などから恐らくこの企画に乗ってくるだろうなと高を括っていたが果たして早速翌日に「社長の了承が得られので是非やりたい」と連絡が入った(笑)。単なるビアガーデンでもその場所柄十分な売上は見込めたと思うが流行りのブランド名を店名に付ける事で認知度が高まり更なる集客力が見込める。おまけにその相手先から企画料という名目での実入りも得られる。人の集まる所には企業PRとしての価値が生まれこちらの仕掛け次第で協賛スポンサーが付くという事を私は鈴鹿等で身を持って経験していた。キリンビールのサブスポンサーも得てオープンしたパーソンズバーは連日盛況の極みだった。当時人気の有ったポパイやホットドッグという雑誌にいち早く取り上げられた事も毎夜の満員御礼に寄与した。チープなテーブルと椅子を配置し、食べ物も冷凍モノの安っぽい物しか提供しない露店風情の店に何でこんなに人が集まって来るのだろうとも思ったがそこはやはり圧倒的なブランド力の賜物だった。私自身も夜な夜なここでも痛飲し、刺激的で面白い夏を過ごした。パーソンズと組めた時点である程度の勝算はあったが結局最後まで大盛況のうちに期間を終え、企画料と売上の%で相当な実入りを手にする事が出来た。もうその頃になるとネタさえ有れば自身で企画と営業、現場制作の全てをこなせて幾らでもお金儲けが可能だと自惚れていた。
人脈は金脈という言葉が有るが当時の私には言い得て妙の格言だった。実際ここまで副業を広げる事が出来たのも様々な人との出会い、力添えが有ったからに他ならない。いくら着眼点や企画力が秀でていても最後の決め手は人脈だと解っていた。まだ30歳手前という若さも手伝ってこれはという人物に出会ったらどんどん相手の懐に飛び込んで行く事が出来たし、そういった際にはやはりM社の名刺、看板は重宝した。まずはビジネス抜きで親しくなるのが私の正攻法だったから冒頭でも書いた様に夜は食事、酒盛りそしてレースの無い週末はゴルフ三昧の日常だった。人脈作りで時間と金を惜しむ事は無かった。この頃にはもうM社の同期達とはとてもじゃ無いが一緒に飲んだり遊んだりする気はしなかった。昔の話①でも書いたが私が何となく感じていた違和感の答えがその後の私自身の姿だった。私は異分子だったのだ。