2020.12.16
第5章5昔の話⑤ 覚醒
加速していくビジネス
‘87年3月に導入された鈴鹿サーキットに於ける移動型大型ビジョンのシステムは計5戦のF3000レースに加えオートバイの日本GPと8耐、そしてF1GPでのオペレーションによってサーキット場での新たなファンサービスを兼ねた広告媒体として完全に認知された。初年度の収益は約1,500万円で当初M社で作成した事業計画案の倍程度まで膨らんだのだがこれは予定には無かったF1GPが大きく寄与した。こうして頻繁に鈴鹿に通い、またスポンサー募集の営業活動をしていく中でレース業界や広告業界でも幅広く人脈も出来、翌年度の運営には更なる新規スポンサーの上積みが見込まれていた。そしてどの世界に於いても先例に倣うのが定番で富士スピードウェイと仙台の菅生サーキットからも導入の打診が舞い込んで来た。レースの詳細は省略するが富士スピードウェイではWEC JAPAN,菅生ではTT F1という世界的なレースが開催される予定で鈴鹿同様このシステムを導入、運営して欲しいとの依頼だった。翌’88年のレースシーズンが始まると私は殆ど毎週末を鈴鹿か富士、菅生のいずれかのサーキット場で過ごした。
レースの中継映像の合間に協賛スポンサーの広告をスタンド席の観客に向けて流すという仕組みで始めたこのシステムだが翌’88年は新たな仕掛けにも取り組んだ。8耐やF1GPのビッグレースでは前夜から何万人ものファンがやって来、その殆どが広大な駐車場で野宿かテントを張っての野営だった。そういった群集相手に折角だから前日入りの移動型大型ビジョンの有効活用も含め何かイベントを手掛けようと考えた。単に大型ビジョンで過去のレース映像を垂れ流しても面白くも何ともないのでタレントとかを呼んでコンサートを含めたイベントを企画してみた。大型ビジョンの横に仮説ステージを設営しその周りには飲食の屋台を配置、コンサートや協賛企業のPRイベント等の催し物をすればかなりの集客が見込める筈だ。イベント自体を8耐前夜祭と銘打って冠スポンサーを付け、各社のPRステージでも参加費を貰ってイベントの費用を賄う。鈴鹿サイドに打診すると論なく了承を得た。タレントやステージの仕込み等は知り合いの制作プロダクションに手伝ってもらい私はここでもスポンサー集めに走った。この頃には広告代理店、企業の宣伝部等にもある程度顔が利くようになっていたし、いざとなれば本流の大型ビジョンのビジネスで付き合いの有る既存のスポンサー企業に頼み込む事も可能だった。そして前夜祭の冠スポンサーには学生援護会=anというアルバイト雑誌を発刊していた企業が付き、PRイベントにはHondaやヤマハのメーカーに加えタイヤ、アパレル、ヘルメットなどレース関連10社程が参加してくれた。タレントは当時人気のあったBaBeという女性デュオ(今となっては殆ど誰も知らないと思う)と岩城滉一で決定した。余談だがBaBeは私の個人的好みで決めた(笑)、あと当時の岩城滉一はその見た目の通りほぼ輩(ヤカラ)だった(笑)。協賛企業各社専属のレースクイーンやキャンペーンガールも登壇しイベント自体は大盛況に終わった。この成功が引き金となって翌年からはメインスタンド前のコースを開放してもらえて本格的なステージを組むことが可能になった。私が関わったのは翌年の早見優と3回目のリンドバーグまでだがその後も今日まで継続的に開催されているようだ。
開始してから2年、鈴鹿を皮切りに国内サーキット場での移動型大型ビジョンを駆使したこのシステムの利権を私はほぼ手に入れる事が出来た。また8耐前夜祭という興業も行いイベント屋の横顔も併せ持つようになって行った。今なら副業が許されている企業もチラホラ出てきてはいるが当時は勿論禁止だった。個人会社の代表は別人を立ててはいるが私がM社の枠を飛び越えてこのビジネスに関与しているという事が表沙汰になる日もそのうち来るであろうとも思っていたが達観視していた。それまでにもっとお金を稼ぎ、広告業界で経験と実績、人脈を築いて行けばいいのだと。自身の商社マンとしての未来は殆ど頭の中から消え失せていた。
私の人生の中でも最も思い出深い曲の一つだ。これを聴くと当時の鈴鹿の暑い夜を思い出す。彼女らの後に人気者のウインクが出てきたのだが私はBaBeの方が好きだった。やっぱり昭和歌謡は良い。私自身の歳のせいも有るだろうが今の時代のスカした奴らが作るスカした音楽は好きにはなれない。哀愁というものを感じられない奴らには人の奥底、心に訴えられる曲は作れないと思う。今の時代の曲は精密機械かAIみたいなヤツらがセコく大衆や若者の好みに合わせて作っているような気がしてならない。曲は良くてもどことなく何か薄っぺらさを感じるのは私だけだろうか。
本業で残した足跡
ここまで激しく副業で動いて会社には気付かれ無かったのかとお思いの人もおられるかもしれない。本業のM社の事に話が及ぶが一応宮支えの身であったので朝は定時に出勤し、会社の為にも動いていた。鈴鹿サーキットの移動型ビジョンの企画は部長から水商売だと皮肉を言われ却下されたのでビジネス規模の大きい据え付け型に特化してあれこれ動いた結果、東急電鉄グループが話に乗ってきた。当初渋谷の109の正面壁面に設置しないかと飛び込み営業で私が企画を持ち込んだのだがその後紆余曲折を経て電鉄による再開発予定のビルが有り、その壁面に設置するかという検討段階まで来ていた。場所はハチ公広場前でビジネスとしては規模(機材だけで数億円)も場所も最高だった。さすがにヒラ社員の私以外に課長、部長まで巻き込んでの商談、合議となった。その結果、設置がほぼ決定となりCMを流すスポンサーも先立って募集を開始する事にもなった。本業でも大型ビジョンのビジネスの足場を築く事が出来(流石に今回は部長から水商売とは言われなかった笑)、その事業性から私の広告業界への関与についても社内で何の違和感も持たれない立場を身につける事が出来た。企業の宣伝部や広告代理店に出向くのが当たり前の業務だったし出退勤の時間も殆ど自由だった。これがサーキット場での移動型ビジョンやイベント開催などの副業を更に膨らます事が出来た要因の一つだ。
結局ハチ公広場前のビル、MAGNET by SHIBUYA109の壁面には大型ビジョンが据え付けられそれを機に周辺のビルにも同様のビジョンが挙って設置され始めた訳だがこのプロジェクトに私が最後まで関わる事は無かった。その時はもうM社に居なかったのか何をしていたのかも良く覚えていないがあの大型ビジョンを見るにつけ30年以上も前のサラリーマン時代を思い出す。