2020.12.09
第5章4昔の話④ 副業の契機
M社のスタンス
1987年3月初旬、サーキット場で移動型大型ビジョンを使った実況中継の初めての試みは現地での作業も含め運営全体が成功裏に終わった。観客は元よりHランド社含め関係者の評判も上々で鈴鹿サーキットで今後開催される大きなレースイベントで引き続きこのシステムを導入していく事に異論を唱える者は誰も居なかった。私は早速事業計画案を作成し、M社内で事業として承認を得るべく稟議書と共に上司に提出した。しかし全く予想だにしていなかった事だが却下された。今でも明確に覚えているが「総合商社である我が社でこういう水商売的な広告屋がやるようなビジネスを遂行していくのは如何なものかと思う」と部長から説明を受けた。加えて年間収益が僅か数百万程度でリスクを張って新規にやるようなビジネスでは無いとも言われた。後は当時私の所属していた課の課長と部長が犬猿の仲だった事も大きな要因だったと思う。当時の商社と言えば輸出入貿易や物資の販売が主な生業で今のような映画、音楽などのソフトコンテンツビジネス等を仕掛けているところはほぼ皆無だった。ましてや管理部門一筋で真面目に勤め上げて来た定年間近の爺さん(部長)にこういうビジネスの将来性を唱えたところで暖簾に腕押し、馬の耳に念仏だった。しかし言うに事欠いて「水商売」って(笑)。そんな感性を持つ上司が当時の商社には軒並みいたのも勤め人としての憂い、会社への忠誠心の欠乏の原因の一つだった。
私の決断
会社(部長)の決定は私の意に反するものだったが落胆はしなかった。折角考えたこのビジネススキームを諦めるつもりは毛頭無かった。おまけに初回のトライアルも終え、Hランド社のお墨付きまで得ているのだ。我がM社には一社員としてきちんと筋を通したしその上で事業化しないという社の方針であれば私個人でこの仕事を継承すれば良いと思った。こういう考え自体がそもそも勤め人として壊れた人種の発想だったかも知れないが早速当時懇意にしていた知人に相談し、彼を代表にした広告代理業を生業とする株式会社を作り、金銭の授受は全てこの会社を通して行えるようにした。スポンサー各社、Hランド社などの関係会社には「M社の下請けとして今後はこの会社を通して請求、支払いをさせて頂きます」と言えば何の問題も無く順応してくれた。今はどうか知らないが当時の広告業界で契約書というのもは一切存在しなかった。スポンサーの元に営業に行き協賛の同意を得たらレース後にエビデンスの写真等の資料を添付した請求書を送れば良いだけだった。スポンサーがどんなに大きな会社であっても契約書を交わした事など一度も無かった。またHランド社とも本来ならば業務委託契約でも交わしておきそうなものだったがそれも無かった。ある意味全ての事案が口約束で遂行されていたのが当時の広告業界だった。そういうアバウトな業界だったし、仕事の案件に下請けプロダクションとか自身が使い易い会社を絡める事など日常茶飯事だったからM社に下請け会社が付いたところで何の違和感も抱かれなかったのだろう。また営業や交渉事にはM社のブランドと信用度があった方が動きやすいという思いも有りちょいとそれらを利用させてもらう事にした。勤め人である自分が個人会社を作りサイドビジネスに手を染める、そして時には会社の名刺やブランドを利用するという事に対し社会人としてのモラル自体にも考えが及んだが社長は別人だし何か有れば好意で仕事を手伝っていたとシラを切ればいいだけだという考えも有った。加えて会社に対する忠誠心など当時は殆ど皆無だったし自身が考案したビジネスを遂行し、その先にある物を見てみたいという興味と広告業界に対する憧れの方が圧倒的に勝っていた。
ビジネスの遂行
3月末には鈴鹿でオートバイの世界グランプリ第1戦という大レースが20年振りに開催予定で当然移動型大型ビジョン設置の依頼もHランド社から有った。時期は迫っていたが協賛スポンサー各社にはこの世界GPについて既に予め打診済みでむしろこのレースだったら是非検討したいと内諾をもらっていた企業も少なからず有り当日の収支を含めた運営は上々の結果だった。そして鈴鹿と言えば8時間耐久オートバイレース、通称8耐が有名で決勝日だけでも15万人以上、期間中は延べ30万人以上の観客が押し寄せる最大級のイベントが7月末に控えていた。この時はメインスタンドの前だけでなく他のコーナー観客席にも同様の移動型ビジョンを配置し計3台体制で臨んだ。当時は東芝の他に松下やソニーも移動型ビジョンを保有していたのでそれらを駆り出した。出費は嵩んだがさすが大レースだけあって協賛スポンサーの数、金額もそれなりのものに膨れ上がった。レースの冠スポンサーだったコカコーラを始め海外のタバコ会社、タイヤメーカー、バイク関連雑誌、アパレル会社、ヘルメットやツナギの会社等々協賛スポンサーは優に10社を超え3台の機材代や他の経費を払っても十分な利益を上げる事が出来た。
そして予想だにしていなかったもっと大きなビジネスが巡ってきた。11月1日に鈴鹿でF1グランプリが開催決定したのだ。富士スピードウェイで開催されてから空白の10年、日本人ドライバー中嶋悟の参戦、フジテレビによる全戦放映、バブル景気など全ての要素が重なって日本で空前のF1ブームが巻き起こった。今は亡き伝説の天才ドライバー、音速の貴公子アイルトン・セナの他にもアラン・プロストやナイジェル・マンセル等々豪華な顔触れが鈴鹿に集結するのだから盛り上がらない訳が無かった。結局バブルの終焉と共にブームも衰退していったのだがこの1987年から社会現象となったF1ブームは数年続いた。それまで鈴鹿サーキットで観客動員数が最大と言えば8時間耐久オートバイレースで15万人であったがその年のF1グランプリでは22万人強の動員数だった。当然それも事前に予想された事だしHランド社のほぼ強制的要求も有って8耐の3台を上回る5台の大型ビジョンを導入する事になった。東芝、松下、ソニー、当時日本に存在した移動型大型ビジョンはほぼ全て鈴鹿に集結させた。運営コストも破格な金額となったが広告料も通常の3倍程度の単価に設定したにも関わらず協賛スポンサーは面白いほど次から次へと決まって行った。これもF1ブームのおかげだったしビジネスとしては絶妙のタイミングだった。
イベント自体のレベルや導入機材の規模もそれまでやってきたレースとは訳が違い、フジテレビとの打ち合わせや現場での設営作業は夜通しかかったが本番ではこれといったトラブルも起きず滞りなく終えることが出来た。得られた利益も大きかったがこのF1という国際的大イベントでも上手くマネージメント出来た事で私はこのビジネススキーム、運営ノウハウに改めて自信を持つ事が出来た。またスポンサー募集や現場運営の過程に於いても様々なレース関係者、広告業界の人脈も新たに構築出来た。当初はレース業界、広告業界の事など何も分からないど素人の商社マンというある意味稀有の目で見られていた感を拭い切れなかったのだがこのF1レースを終えた頃にはそういう色眼鏡を外して接してもらえるようになった気がした。同時に「鈴鹿の大型ビジョン」=「M社の川口」も業界関係者の中でも周知のものとなっていた。 (注:以降私の呼称=川口とする)