2020.12.02
第5章3昔の話③
立案
現在の鈴鹿サーキットの正面スタンドの様子の写真だが久々に見て驚いた。何台もの大型ビジョンが据え付けられており時代の流れを感じた。34年前の当時(1986年)は勿論こんな設備など一切無く正面スタンドに陣取った観客達は最終コーナーから現れたレーシングカーが800mの直線を爆走し、1コーナーの向こうに消えて行くまでの僅か数秒の時間しかレースを目視する事が出来ず、残りの5km、時間にして約1分半は遥か彼方から聞こえるエンジン音に耳を澄ますか或いは場内の実況中継か貸出しのFMラジオでしかレースの様子を窺い知る手立てが無かった。色々考えてこの移動型大型ビジョンの存在価値が高く評価されるであろう施設のひとつがサーキット場であるのではないかという結論に辿り着いたのだ。
翌年87年からは最高峰F1直下のカテゴリーであるF3000シリーズが新たに開催予定でバブル期とF1ブームが重なった事も有り多様なスポンサーの参入やら有名レーサーに加え芸能人(岩城滉一、近藤真彦等)の参戦も相まって国内モータースポーツ業界はかなりの盛り上がりを見せ始めていた。そして私が鈴鹿サーキットにターゲットを絞ったのは上記4輪レースの開催に加えて有名な夏の8時間耐久ロードレース、通称8耐と呼ばれるオートバイの大レースが毎年行われていたし翌年からは同じくオートバイの世界選手権も開催が決定しており、鈴鹿は国内レース場の中でも今後圧倒的な集客数が見込めるイベントが目白押し、まさに広告収入を得るには打って付けの屋外イベント施設だったからだ。
企画の内容は正面スタンドから良く見える位置に移動型大型ビジョンを停め、そこでレースの実況中継映像を流す。当時はCBCという名古屋の放送局がメインで中継担当だったのでそこからの映像を拝借する。当日行われるレースの合間にスポンサーのCM広告を放映し、レース中は画面の上部にスポンサー各社の企業ロゴを表示しておく。当然スタンドにいる観客の殆どはこの大型ビジョンを注視するだろうから広告媒体としてそれなりの効果が見込まれ、また鈴鹿サーキット側も費用負担無しでファンサービスが出来る。彼らのやるべき事は移動型ビジョンの設置場所の確保とCBCからの映像提供の承諾を得る事だけだった。
行動
年末に企画書を作成した上で当時鈴鹿サーキットの運営母体であったHランドという会社を訪れ、プレゼンを行った。後々の話になるがこの時対応してくれたF課長とはウマが合い打ち合わせを兼ねて良く飲みにも行ったし、そう言えば三重県の伊賀上野という彼の実家にも泊まらせて貰ったりした事も有ったなぁとこれを書きながら思い出した。果たしてプレゼン自体は上手く行き、来年の3月に鈴鹿で行われるF3000レースの第1戦で試験的に行なってみようというHランドの決定をF課長から聞き、私はこの企画に協賛してもらえる企業スポンサーの獲得に取り組む事にした。企画自体は恐らくHランド社内では通るだろうと高を括ってはいたが問題はスポンサー集めだった。これは商社というより広告代理店の分野だ。実際大手企業の宣伝部の多くは広告代理店にイベントや広告媒体の選定、制作など丸投げしているところが多く、また年間通しての媒体契約という形で予算組みされている事が多いので今回のように一つのイベントにスポットでの協賛という形は中々難しいという事もそのうち分かってきた。そしてモータースポーツ業界に於けるスポンサー企業の洗い出し、その担当広告代理店の特定などこの業界の事について色々勉強する必要が有った。
その講師に打ってつけの人物がいた。鈴鹿サーキットには場内至るところに各社の看板が設置されており、またレース毎に発行される公式プログラムでの広告出稿などHランド社はモータースポーツ業界に於いてその協賛企業数、金額の規模では無比の広告媒体を有する大家さんだ。そして協賛企業の宣伝部の担当者、担当広告代理店など現場の事を最も良く熟知しているのが彼だった。広告業界ど素人の私があれこれ調べて動くよりも蛇の道は蛇、専門家に教えを請うのが一番とF課長の元に通い、当時Hランドが有った八重洲の居酒屋で一杯飲りながら教えてもらう事も度々有った。鈴鹿サーキットは元より自動車レースに於いては今回の企画が初めての試み故に協賛企業や代理店担当者もそのイメージや効果がいまいち不明瞭である事から協賛スポンサーの獲得は苦戦した。それでも日々関係各社に足を運ぶ中でこういった新しい媒体に興味を示してくれた企業も何社か出てき、加えてF課長の口添えで協賛に付き合ってくれる企業も有り2月中旬には何とか最低限の運営費用プラスアルファまでスポンサー料を獲得する事が出来た。今となっては記憶は定かでは無いが移動型ビジョンのレンタル料が1泊2日で200万程度、Hランド社への支払いが中継映像賃借料含め100万、その他経費併せて300万強が当時の損益分岐点だったと思う。