2020.11.25
第5章2昔の話②
配属移動
新規開設部署には社内各部から10数名の移動者がいたが私が言うのも何だが前の部署で恐らく使い物にならないから放り出された様な面々だった。ある意味窓際族予備軍の集まった掃き溜めの部署の様相を呈していたが逆に色々と好き勝手に動けそうなので好都合だと思った。掃き溜めの鶴と化せるかどうかはこれからの自分次第だった。私は映像開発室という課に配属された。ソフト、ハードに関わらず映像に関する新規商材を発掘し商社としてのビジネススキームを作り上げる事を課せられたチームだった。課長と次長と私の3名のみだったが彼らも他部署からの移動組で課長は機械部門一筋で会社に奉公してきた定年間近のザ・商社マン。次長は前部署では材木を扱っていたと言うから驚きだ。どういう人選で会社が各自を配属したかは分からないがこの新規開設部署が全く期待されていないのが良く分かった。現に2人の上司は毎日定時の17時半になるとそそくさと退社して行った(笑)
ビジネスの模索
今の時代の各商社は挙って映画やアニメの制作投資、音楽映像などの著作権の獲得など殆ど全てのメディアの出口に対応できるコンテンツ事業に進出しているが30年以上も前の当時は高速で安価な通信インフラや映像コンテンツを視聴する環境などあろう訳も無く映像関係の娯楽と言えば街中の映画館か家のビデオで映画を見るのが関の山だった。我が映像開発室も時代がもう少し後だったら脚光を浴びる部署になっていたかも知れない。とは言えサラリーマンである以上何か稼ぎ口を見つけねばならない。企画部の他の社員達も時間は腐るほどあるので日々何とかビジネスショーとか展示会に足を運び、夕方になると袋一杯に詰まったカタログを手に帰社してくるのだった。インターネットがない時代だったので足を使い情報を収集するしか手立てが無かった。ある日誰かが持って帰ってきていたそれらのカタログの中で目を留めた物がひとつあった。
今でこそ大型スタジアム、競馬場はもとより大都市のビルの壁面に当たり前のように設置されている大型ビジョンだが当時の街中では唯一新宿のスタジオアルタのみだったし球場では後楽園球場(東京ドームが出来たのは2〜3年後の事だ)に設置されていたくらいか。東京競馬場に設置されたのもちょうどその頃だったと思う。要は当時が大型ビジョンの黎明期、夜明け前の時代だった。三菱電機を筆頭に東芝、松下、ソニーが挙ってこの大型ビジョンを開発し色んな施設に売り込んで行こうという正にその時だったと言える。しかしながら当時はまだこういった機器への認知度も低く、また企業やイベント主催者が設置を検討するも価格や重量(何tもしたので工事費用が高額)が足枷となって二の足を踏むケースも少なく無かった。因って当時はJRAとかプロ野球の本拠地球場くらいしか販売先は限られていたとも言えよう。
カタログには東芝が開発した車載型の大型ビジョンが載っていた。東芝はスーパーカラービジョンという名称で売り出しておりそのデモンストレーション用に移動可能な車載型を用意したのだ。琴線に触れたと言えば大袈裟だが何となく興味を持ち早速連絡して来てもらった東芝の子会社の担当者から説明を受けた。加えて貸出しに意欲的だったし料金についても格安の申し出が有った。私はこの車載型も含めて大型ビジョンというハードを基にした事業スキームをしばらく時間をかけて考案してみる事にした。
フレームワーク
知恵を絞りあれこれ考えた結果、まず単なる機器のレンタルや販売でちっぽけな利鞘を稼いだところでビジネスとして面白くも何とも無いという事だ。売り上げは作れるが一過性のものでありそれこそ我々がやらなくてもメーカー達自身で行っている。重要なのは永続的に利を生み出すスキームだ。結論から言うとこの機器を我がM社の屋外広告媒体として位置付け、その広告収入で運営費を賄い安定的利益を生み出し続ける仕組みを構築する。当時の屋外広告と言えば看板やショーウインドウくらいだった。1社の枠しか取れない看板と違いこのメディアだと映像でいくらでも何社ものCMを流し続ける事が出来る。枠はある意味無尽蔵だからスポンサーを取れば取るだけ利が乗っていく。それには安定した広告収入が見込める場所を管理、保有している大家を見い出しM社が店子となれば良い。移動型は人が集まる大きなイベント会場へ、据付型は人の往来が激しい都心の繁華街に。設置と運営の費用は全てM社が負い大家はその負担を一切背負うこと無くイベントや建物自体の付加価値も上げられるという仕組みだ。場合によっては売り上げに応じた家賃も支払う。資本力の有る商社だからこそ出来るビジネススキームではなかろうか、まずはそういう戦略で動いてみる事にした。
色々ターゲットは有ったがまずは移動型は鈴鹿サーキットに絞った。