2020.11.18
第5章1昔の話①
全くSPJやヘアアートとは関係が無い私事の昔話しをしばらくしてみる。あまり人様に大っぴらにする話では無いのだがもう30年近くも前の事だから時効だろう。何話になるか自分でも分からないし退屈な話だと思われる方も居られるかも知れないがちょっと壊れた若かりしサラリーマン時代の与太話だと思って下さい。
会社員の憂鬱
今から約40年程前私は大阪の大学を卒業し東京の某商社に就職した。M社としておく。在学中は勉学などそっちのけでバイトとコンパに明け暮れる日々を過ごし、4年生になっても将来の展望、進みたい道などあろう訳も無く、ただ何となく聞こえの良い商社マンという響きに魅せられ、就職活動の結果運良く採用されたのだった。最初に配属されたのは機械部門の営業課だった。総合商社だったからとにかく様々な部署が有ったが当時の機械部門の営業と言えば人気の花形部門の一つだったと思う。私の仕事はと言えば原子力発電所の建設関連で簡単に言えばアメリカのジェネラルエレクトリック(GE)社から発電所のパーツを輸入し、それをH製作所に納品するというものがメインだった。勿論課長や他の上司達はもっと規模の大きいビジネス、商材に携わっていたが入社したてのペーペーの私に任せられる仕事としたら今思うにそんなものだっただろう。まぁ単調な仕事だった。毎日御茶ノ水のH本社に行き箱に入った発注書を持ち帰り、それを元にアメリカの駐在員にテレックス(当然その時代にはmailもfaxも無い。タイプライターみたいな端末でメッセージを打ち込み送信すれば相手の端末に印刷されてoutputされてくるのだ。文字数によって通信費も変わってくるので電報みたいな文章でやり取りする)を打ちパーツの輸入、通関、納品など一連の業務を遂行、管理するのが主たる業務だ。輸入業務についても専門的な細かい作業は色々発生してくるが省略するとして納期が遅れればH社に呼びつけられて担当者に怒られ、納入部品の不具合が有ると茨城のH工場まで出向いてヘルメットを被り工場長とかに現場の説明を受けながら嫌みを言われる日常だった。
入社時の住まいは埼玉県志木市というところの社員寮だった。他にも都内の笹塚と自由が丘にも寮はあったが運悪く志木寮を充てられた。当時志木から会社までは東武東上線で池袋まで行きそこから有楽町線で飯田橋、東西線に乗り換え竹橋下車という経路だったが東武東上線の通勤ラッシュたるやもの凄かった。混雑率で言うと250〜300%位あったのでないか。電車が揺れるたびに身体も斜めのまま身動きが取れず手も動かせない。ガラスも割れる事があって正に地獄の通勤ラッシュだった。今は新路線の開通、鉄道各社の相互乗り入れなどで多少は緩和されたのではと思うがとにかく緩い学生生活を送っていた私にとってサラリーマン生活で最初に強烈な洗礼を浴びせられたのがこの通勤地獄だった。
朝8時前に寮を出、通勤地獄を味わっての出社、単調で退屈な業務をこなし、忙しい時は22時〜23時まで残業する事もあった。救いは営業だったので適当な理由をつけて外出し喫茶店やパチンコ屋でサボる事が出来た。休日は部屋で寝てるか雀荘で寮の奴らと麻雀のほぼどちらかだった。要は至って普通のどこにでも居るようなサラリーマンだった。同期は150人程いたがその多くは希望の会社に入社出来、自分達にはこれから商社マンとしての明るい未来が待ち受けていると確信しているかの如く馬車馬のように働いていた。毎夜22時辺りから続々寮に帰宅してくるのだが食堂でビールを呑みながら今月はもう残業100時間超えたとか、来週は何処そこへ出張だの社内の人事がああだのこうだのまるで自身が会社の屋台骨であるかの如く仕事と会社の事をひたすら語り合う彼らを見ていて私にはどうしても我が身の姿を重ねる事が出来ずにいた。これから先何十年も歯車としてこの会社に仕えその代償として得たお金で家庭や住居を持ち、通勤ラッシュに揉まれながら定年までひたすら奉公し続ける。果たして私にそんな事が出来るのだろうか。学生時代から何の目標も持てずそのまま何の疑問も無く就職した会社だが在職すればするほど自身の立ち位置に違和感を覚えて行ったが、答えを見出せないまま3年目を迎えようとしていた。
有る時社内で新規部署が新設される予定、そしてそれに伴う部員の希望者を募っている事を知った。情報産業企画部と言うコンピュータや通信を活用した情報サービスや今は聞く事の無いVANとかキャプテン(ググったら出て来る)などの分野でのビジネスモデルを生み出していくと謳われていた。通信やコンピュータの事は皆目わからなかったが何となく興味が湧いた。上でも記したが果てしなく退屈な仕事と生活に見切りをつけられるきっかけとなればという思いと遠からずアメリカの駐在要員として赴任される日も来るだろうがそうなれば結婚も視野に入れなければならず益々社畜としての立場に縛りつけられてしまう。そんな思いから思い切って応募してみる事にした。上司や他の部員が多忙で残業している最中、麻雀の誘いやデートで定時に何の臆面も無く退社してしまったり、仕事に対する志や意欲がいまいち感じられない部下など上司達に覚えが目でたい筈も無く割とすんなり配属移動が受理された。結果この事が大きな人生の転機であり流転の始まりだった。